あとぢゑ〜る

大人の発達障害と麻雀初心者の歩む道

🪦「いいところが一つもないね」と言われた話

昨日も麻雀をやって来た。
またラスだった。それもダントツに成績が悪かった。

麻雀は運ゲーの要素があるので一回くらいでは判断できないが、先週から成績が点数化されて目に見える形になると、さすがに運とかそういうことではなく、手作りで差があるのだと嫌でも気づいてしまう。
他のメンバーだって初心者には変わりはないし、役を分かっていない人にアガリやテンパイスピードでずっと差をつけられているのを見ると、根本的に知能の差があって、そうなると自分の努力では埋められないのではないかという気がしてきたのだ。

 

知能指数平均未満+ADHD

私の知能テストの成績は、日本人の平均より低い。
昔、テレビで知能テストの番組があって、日本全国平均が110台くらいあったように思うが、自分は92だったか93だったので、平均より大幅に下回る。

私が平均より上回るのは空間認知のみ。
いわゆる「回転」で、図形を引っくり返してどれとどれが同じであるかというやつで、これに関しては迷うことなく次々回答できる傾向はあった。
これができて何の役に立つかと言うと、乗り物の運転で距離感が掴めるということらしいのだが、私は車を持っていなくて運転しないので、自分の空間認知を役に立たせる機会もない。
何より、空間認知が上回った分、ほかの数値はさらに低いだろう。
短期記憶と計算能力なんて酷いものだ。

こういう平均に満たない数値だと、境界知能までは行かないが、表向き何となく普通を装うことが可能でありながら、仕事など実務的な面で「とろい」「いまいち仕事ができない」「理解力が遅い」という部類に入ってしまう。
まるでWindows11を4GBのメモリで動かしているようなものだ。

その上、私は診断済み発達障害と来ている。
知能が平均未満の発達障害という、もしかしたら相当生きにくいタイプのようにも思える。

ただ一方で、私にはコミュニケーション障害がない。
その分、コミュ障よりは世渡りしやすそうで、実際にそれを上手く活かせたこともある。
じゃあ、それで十分マシな方じゃないかと思われそうだが、コミュニケーションが仇になることもある。

昨年、懇親会の席で、ある人から「いいところが一つもないね」と言われたのだ。

 

言われたショックでハゲる

この言葉は暫くずっと私の頭の中でぐるぐる巡り続けた。
間もなくして円形脱毛症があらわれ始めた。

最初は1円ハゲだったが、二ヶ月後には500円玉大サイズにまでパワーアップし、さらに気がつけば頭頂部まで薄くなっていた。
病院に行ったら「何かストレスがありましたか?」と真っ先に訊かれたが、上記の言葉以外に心当たりがなかった。
それまでも、はるかに甚大なストレスを経験してきたが、脱毛などしたことはなかったので、それくらいのことでとも思ったが、昨日の麻雀で自分の能力の低さを自覚したのをきっかけに、昨年言われた「いいところが一つもない」発言が一気に蘇ってしまったので、やはり自分にとって相当なダメージがあったようだ。
ちょうど閉経時期に重なってエストロゲンが低下しているころでもあるから、脱毛という形であらわれたのだろう。

メンクリ行ってPTSD診断受けてたら、慰謝料が取れてたかもなー。


なぜハゲあがるほどストレスを感じたのか

たとえば「顔がブサイクだね」と言われても、への字口を見せて終わったと思う。
私は自分の容姿が良くないという自覚があった上で、そのことについて関心が薄いがゆえに特段コンプレックスも感じておらず、改善のために努力すらしていないからだ。
でも、もし私が自分の容姿に強い関心を持ち、コンプレックスを抱いていたのなら、この言葉はグッサリと心を抉ることだろう。

「いいところが一つもないね」とは全否定の言葉だが、私にとって非常にコンプレックスとなっている仕事をおこなうのに必要不可欠な実務能力が備わっていないことを改めて指摘されたように感じてしまい、酷く落ち込んでしまったのだ。

そこに連続して麻雀でラスになり、数値化され、ダントツに成績が悪かったことで、知能指数の差という先天的なもので絶対的に超えられない壁を思い知らされ、久々に大量の鼻水が流れ出た。

「いいところが一つもないね」とはどういうことなのだろうかと検索までした。
すると、同じことを言われた経験がある人は少なくないようで、Yahoo!知恵袋で多く取り上げられていた。
ただ一つ自分と違うのは、多くの人は、家族や職場の人など日常的に接している相手から言われていた。

私はそうではなかった。
「いいところが一つもないね」と言った人とは、たまにしか会っていない。
なのでその時に、私について「よく知らないし」とも言っていた。

よく知らない相手に「いいところが一つもない」と言うことは、相手の良いところを探すつもりもないという宣言だと私は解釈している。

そもそも「いいところが一つもない」と相手を全否定するような発言は建設的と言えるのだろうか。

 

社会から「死ね」と言われても死ねない理由

私は長年うつ病を患っていたし、ずっと「消えたい」と思っていた。
「死にたい」ではないのは、単純に痛いの苦しいのが嫌だからだ。
飛び降りだの飛び込みだの自殺を図って、死に至る時の身体的苦痛を想像したら恐怖でしかないので、自死自殺の類は決行する勇気がなかっただけに過ぎない。

何で自分は人並みのことができないのだろうと悩み続けていた。
仕事ができなくて自分には生きる資格がないと考えていた。
世の中には、そういう人間に対して「存在しているだけでいいんだよ」「生きてくれているだけでありがとう」などと言ってくれる人もいるけれど、現実はそうではない。

勤労の義務というものがある。権利ではなくて義務なのだ。
義務を果たせていなかったら批判の対象になるのは仕方がないのではないかと自分に対してだけは思ってしまう。

ヤフコメでは犯罪者が無職だと「やっぱり無職か」など、まるで無職だから暴力に訴え出るかのような意見が多く見られる。
さらに「働け」とも。
しかしそれらの意見には首をかしげる

そもそも気に入らないことがあったら暴力に訴え出るようなヤカラだからこそ無職なのではないか。
そういうヤカラであっても自分の職場で受け入れてあげようという意思があって「働け」と発言しているとは、到底思えない。
なぜなら、発達障害者の仕事に関する記事には、職場での発達障害者の扱いにストレスを抱えているカサンドラ症候群的なコメントが多く見られるからだ。

「無職は許さない。働け」
「仕事ができない人とは一緒に働きたくない」

この二つの意見は矛盾しているが、これらの意見を発言している人が必ずしも別々であるとは限らないのではないかとも思っている。
おそらくカサンドラの人は実体験として悩んでいるので、発達障害者を職場で抱えるくらいなら生活保護でも受けて引っ込んでいて欲しいと考えることもあるかもしれない。
しかし「無職は働け」と言っている人は、自分の職場でそういう人を受け入れるという話になったら拒絶反応を示すだろう。
あくまでも自分とは関わりないところでどうぞという意思であることは想像に難くない。

社会全体として「無職ダメ。働け」「仕事ができない人とは一緒に働きたくない」という矛盾した意見が溢れていると、こちらとしては仕事ができない人間はどこに行けば良いのかと悩むことになるが、上記の発言をしている人たちにとっては知ったことではないだろう。

とは言え、仕事ができない人間は現実として存在する。
できない人と同じ空気を吸いたくないが、無職で生活保護を受けるのも許せないとなると、できない人間は究極的には存在して欲しくないと言われているに等しい。
実際、匿名掲示板のようなところになると、「死んでほしい」という率直な意見も散見される。

そうは言っても、仕事ができようができまいが、自殺を図る勇気というのは誰でも持てるものではない。
そもそも自殺企図は勇気だけの問題でもないらしいのだ。
自殺を図る人は、何かにいざなわれるように決行してしまうとも言われている。
迷惑だから飛び降りや飛び込みはやめろと言ったところで、決行する人は正気ではなく、理性が吹っ飛んでいるので、そういう常識も理屈も通じていない状態なのだ。

できる人にとって、できない人間に滅びて欲しいというお気持ちは理解できるが、それを自ら決行してくれというのは無理難題だ。
できない人間だろうと、できる人間だろうと、飛び降り飛び込みでグチャンコになったり、息ができなくなったり、痛いの苦しいのが嫌なのは誰だって同じだからだ。

世の中の、できない人間に対する苛立ちは非常に理解できる。
何よりADHD特性ならではの同じ過失の繰り返しに私自身が苛立っており、もしも自分が分裂したら、自分が自分に暴力暴言を働いていただろう。
そんな時はパワハラをする人の気持ちがよく分かるのだ。

一方で私は、できない人間が自分以外の他人だった場合は、その人を理解しようと努めている。
自分ができないからこそ、できない人の苦しみは想像できる。
なのでその点については、通常の人よりも優しく接することができていると思う。

ならば、なぜ自分には優しくできないのか。
決して自分に厳しい訳ではない。むしろ自分に甘い方だ。
おそらく自分がなりたいと考える理想像からかけ離れているから腹が立つのだろう。

好きで無能な人間になりたい人はいない。
もしかしたら、どこかにいるかもしれないが、今のところそういう意見は聞いたことがない。

なんで世の中、仕事ができるできないの指標が実務能力だけなんだろう。
人間関係を円滑に運んで、誰でも居心地の良い環境を作れる人はもっと評価されてもいいでしょ~。

 

私が生き延びて良いと思えた唯一の理由

しかし、できない自分を消すことができないのなら、消さない言い訳が必要である。
なので、自分のいいところを自分で探すしかない。

私が存在して良かったのだと思えるエピソードがある。
もう十七年とか、そのくらい前の一期一会だった。

駅のホームでお爺さんとすれ違った。
そのお爺さんは酸素チューブを付けていて、非常に痩せており、青白い顔をしていた。
いわゆるヒポクラテス顔貌で、命が長くないことを思わせる様相だった。
そんな人がなぜ一人で歩いているのだろうと気になって振り返ったところ、お爺さんはベンチに座り込んで嘔吐していた。
胃液を吐いており、何も食べられていなかったのだろう。

私は「大丈夫ですか?」と声を掛けて、お爺さんにティッシュを渡したり、背中をさすってあげたりした。
具合の悪い人がいると知らせたので、駅員が車椅子を持って来たが、お爺さんは嘔吐して少しラクになったのか、どんな事情があったのかは分からないが、「大丈夫です」と言って車椅子を断った。
そして私にも「もう大丈夫ですから」と伝えてきた。
お爺さんがそう言うからには、私にもそれ以上できることはなかったし、仕事で移動中だったこともあって、私はお爺さんと別れて先に電車に乗った。
大した助けにもならなかったなと思っていた。
もっと他に何かできることがあったのではないかと、今でも考えてしまう。

ところが、である。
お爺さんは駅のホームからずっと私を見つめながらお礼を言っていた。
お爺さんの表情から、私に対する感謝の気持ちが伝わってきた。
つらい時に声を掛けられたことがお爺さんにとっては嬉しかったのだろう。
私のしたことが十分お爺さんの助けになっていたのだと分かった。

私はそれ以来、お爺さんの顔が忘れられなかった。
そして、自分は存在価値がないと嘆き悲しむたびに、お爺さんを思い出していた。
あのお爺さんのために私が存在して良かったのだと思えたからだ。

私はそののちも「消えたい」「存在価値がない」と思うたびに、お爺さんを思い出しては自分が生きている理由としていた。
私はお爺さんの救いになったのかもしれないが、私にとってもお爺さんの存在は支えになっていた。

この件は誰かに話したこともないので、私しか知らない、数少ない私の”いいところ”なのだと考えている。