自身にとってストレスを及ぼす人と、どのように折り合っていくかという問題は多くの人が抱えている。
対象は「職場の上司や同僚」「義理の親兄弟姉妹」「ママ友」「御近所」といったところが多い。
「苦手な人」で検索すると、その対処法の記事が色々と出てくるのだが、目を通してみると、「苦手な人」が「嫌いな人」になっていることが多い。
「苦手な人」と「嫌いな人」は似て非なるものと、私は考えている。
「嫌いな人」は対象への精神的攻撃性が高く、「苦手な人」は受け身の立場から見た人の表現だ。
受け身になっている人は苦手な相手から逃げるのが難しくなっている状態だし、攻撃性を持っている人は嫌いな相手に執着することが快楽になっていることもある。
攻撃的であるか受け身であるかで対処法は異なるはずだが、「苦手な人」が「嫌いな人」に置き換えられていることで、混同されてしまっている傾向がある。
ただ、これらの記事に共通している「他人は変えられないので、自分が変わる」という点は、どちらにしてもその通りだと思う。
以下、「嫌いな人」「苦手な人」への対処法として、よく挙げられている方法なのだが、いずれも「それができないから皆苦しんでるんじゃね?」と思うことばかりだった。
あえて好意的に接する
- 「先手を取って挨拶をしてみる」
- 「とにかく頻繁に近づく」
- 「似ていることを話題にする」
- 「相手の弱点に役立ちたいと申し出る」
どうしてそうなるんだ。
- 嫌なヤツは挨拶しても返してくれないというケースは珍しくない。
- 恐怖の克服は慣れからの手口だろうか。しかし、相手からも嫌われている場合は逆効果だ。
- これは割りと有効な手口かもしれない。共感を得られれば相手も悪い気はしない。ただ、苦手な相手から逆に好かれてしまい、自分が疲労困憊する羽目になることがある。
- ここまで来ると、媚びじゃないか。これも相手を間違えると、支配されてしまってDV被害者やカルト信者みたいな立場に陥る危険性が大。
以前にも書いたが、ASDが心にもないことを言うと、自身が削られて崩壊するので、私にはこの方法はとてもできない。
ASDじゃなくても、大抵の人はこれらの方法を好意的に捉えて実践してみようという気にはならないのではないだろうか。
この一種だと思うけど、「言葉をソフトに変換する」
「会いたくないヤツ」を「たまに会えればいい人」に、
だいたい、こんな風に思えるかね?
会いたくないヤツは時たまであっても会いたくないヤツだと考えるのが普通だと思うのだが。
距離を置く
最近は「無理して好きになろうとせず、嫌いなら嫌いなままで良い」という指南も増えてきた。
その上で「距離を置こう」と言うのである。
しかし、職場やら義理の関係だと、そうは行かないというのが現実である。
退職・離婚・引越なんて、そう簡単にできるものではない。
距離を置けるのなら、多くの人がとっくにそうしているはずだ。
相手を分析する
これに関しては私もよくやっている。
しかし、分析すればするほど納得が行かなくなり、自分の中で不満が増幅するリスクも抱えてしまうので、痛し痒し。
ASDは理屈っぽいので、割りと陥りやすそうである。
客観的視点
「嫌い」「苦手」というのは感情であり、主観である。
自分が変わるしかないと分かっていても、感情を変えるというのは非常に難しい。
あくまでも私個人の場合であるが、客観的視点で説かれる方が頭に入って来やすい。
脳には、無意識のうちに「好き嫌い」を判断する仕組みがあります。「好き嫌い」を判断するのは、脳の扁桃体(へんとうたい)と呼ばれる部分です。扁桃体は物事に対し、安全なのか危険なのかを0.02秒の速さで判断するといわれています。
(略)
人と会ったときも同様に、扁桃体は相手のことを好ましいのか、危険な人物であるのかを判断します。これまでの経験から得た苦手意識と照らし合わせ、相手を「苦手な人」の枠組みに入れてしまうのです。
「苦手」と感じる心は、やがて相手にも伝わります。コミュニケーションには「言語的コミュニケーション」と「非言語的コミュニケーション」があり、人は「非言語的コミュニケーション」ほど受け取りやすい傾向にあるのです。
(略)
自分を嫌いな相手に対し、親切に対応するのは難しいものですよね。「なんとなく嫌われているな」と無意識に察知した相手は、同じように「嫌い」という態度で接してきます。「苦手な人」との関係は、このような悪循環から生まれていくのです。
「偏桃体」だとか「天敵」だとか、生物学的視点で説かれると「仕方がない」と割り切れる面があるし、その瞬間に意識が相手から離れるので、自分にとっては有用な情報だった。
人間関係は「相性が合う人2割、合わない人2割、残り6割がどちらでもない」と言われている。
なるほどなぁと思う一方で、「嫌われやすい人」「苦手に思われやすい人」にとっても同様に相性が合う人は2割もいるのだろうか。
どのような人が嫌われやすいのかと言うと、あまりにも色々なタイプがいるので、全てを記述していたらキリがないが、「自己主張ばかり」「自分の非を認めたり謝罪することができない」「否定的なことばかり言う」「相手によって態度を変える」あたりは、概ね嫌われる特徴として挙げられている。
自分が嫌だったり苦手だったりする人間は、他者にとっても煙たがられるタイプかもしれないと考えると、気分だけでも孤立感は薄れそうだ。
特定の相手に良い顔していても、悪感情をぶつけている相手からは酷く嫌われているだろう。
人の意見は肯定以外聞く耳持たず、意に沿わない意見は否定ばかりする人は、自分の生き方に満足していない人かもしれない。
「自分の生き方に満足していない」と言うなら、何より私自身がそうなのだ。
どうして他者の存在にここまで感情が振り回されているのだろうと考えた時、自分に自信がないことから来ているのではないかと気づいたのである。
究極的には、「苦手な人」とも「嫌いな人」とも全く関係がない、自分自身の問題なのではないかと。
これなんだよ、これ。
自分には”核”が無いんだ。
これがあるから自分は大丈夫だという核が無い。
それは人(他者)であってはならない。
本当にそう思う。
大切な人、自分を支えてくれる存在はいるけれど、その人がいなくなったらどうするのか。
だからやっぱり人であってはならないのだ。
で、その”核”になるものは何かと言うと、やっぱり仕事なんじゃないかと思う。
と言うのも、仕事になれば”報酬”があるからだ。
仕事はまず生活の糧であるけど、そこは一旦置いておくとして、人間って報酬がないと意欲が湧かないものらしいので、仕事が第一の人はそれだけで”核”を持っていると言える。
何より、報酬があることは自己肯定感に繋がる。
自分の場合、自主的に行なって人から感謝されたり賞賛されたりしたことが尽く報酬に繋がらず、報酬を得られる一般的な仕事では挫折を繰り返しているので、人に対して可視化されて胸を張れるものを持っていないのだ。
そうなると自己肯定感はいつまで経っても芽生えない。
いくら感謝され、時にはプロから賞賛されたとしても、それで報酬が得られなければ生活の糧にはならず、現実問題、認めてもらえないのである。
仕事ではないから、関心のない人に対してPRする意味もない。
こうして、他者からは「何も為さない人」に見えてしまう構造ができあがる。
自分に自信が無ければ、弱者として目をつけられてしまい、攻撃の対象になりやすい。
苦手な人を呼び込むのは、やはり自分自身の問題だと言える。
何もできないよ・・・
あきらめるのは、まだ早いんだぜ!!