あとぢゑ〜る

アトヂヱブログ・大人の発達障害と麻雀初心者の歩む道

💻グローバルメニューを付けた

グローバルメニューというのをつけてみた。

まだ始めて半年も経ってない中身のないブログに必要あるのかという感じだが、今どきのブログはSEO対策でグローバルメニューをつけるように推奨されている。

実はWordPressの方でやってるブログの方はいまだにグローバルメニューをつけていない。
というか、グローバルメニューの存在を意識していなかった。

そもそもどのような効果があるのか仕組もよくわからないままで、とりあえず体裁のためにつけましたというのが本音のところ。

ググって、はてな用のグローバルメニューの設置方法を紹介しているブログが多くヒットした。
いくつか試してみたが、ことごとくレイアウトが崩れてしまった。
調整が面倒くさい。

四つ目くらいでようやく良いのが見つかった。
参考にさせていただいたブログ↓

階層付きなので助かった。
これならカテゴリーが増えても、レイアウトが崩れなくて済みそうだ。

そして、グローバルメニューをヘッダーよりも上にしたかったので、参考にさせていただいたのがこちら↓

 

スマホでの表示は重くなったので、display:none; で非表示にした。
自分があまりスマホでブログを読もうと考えていないせいか、レイアウトびみょ~でも放置気味。

スマホ版にすれば読みやすい見た目になるのだけど、それだと吹き出しが表示されずに文章だけそのまま表示されてるので、突然語調が変わっても読者には不自然に思えてしまうかもと思ったので、PCと同じデザインを選択してある。

ムカ着火ファイヤ~!(死語)

これ吹き出しがなかったら何だかわからないよ~


グローバルメニューはタブレットでも非表示のはず。
自分はタブレットを持っていないので確認できない。

いろいろ表示が崩れていたら、すみません。

このブログのテーマはReachを使用している。
着々と改造を進めているが、今風にするならエントリーカードをつけるんだろうね。
でもそれだと記事ごとに画像をつけないとカッコつかなくなるので、面倒だからエントリーカードは諦めた。

💿元気な曲? いいえ、退廃と抑鬱です

お題「この曲、心がささくれてる時に聴くと良いよ!」

落ち込んでる時に元気が出る曲を聴くという人が多いのだろうと思う。
しかし、私の場合は落ち込みというレベルではない。
心が腐りきっているか、うつ状態である。
そんな時に、好きではあってもTLCとかSpiceGirlsを聴こうとは思わない。
そもそも、心が沈んでいる時には元気な曲よりも、静かだったり、あるいは悲しい曲を聴く方が回復に効果があると言うではないか。
確かに、心に音楽がシンクロするとドロドロ混じって、腐ったものが一緒に洗い流されるような気がする。

 

腐っている時に聴く音楽

Brigitte Fontaine "Comme à la radio"

ブリジット・フォンティーヌ『ラジオのように』

1969年の作品で、母の愛聴盤だったことから、物心つくころから聴かされる羽目に。

でもな~ フツー幼児に聴かせないだろ、こんな音楽

Brigitte Fontaine - Comme à la radio

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連続したパーカッション。歌唱というよりは鼻歌。
"à cette minute~"で始まる呪文のようなトースト。
8分強と長いが、その間は異世界へ。

Brigitte Fontaine - Comme à la radio (version anglaise English version)

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こちらはストリングスが前に出た英語版。
フランス語の方がいいけど、アレンジはこっちの方が好み。
6分ころからの連続したウッドベース音でトランス状態に。
鬱なのに聴きながら高揚していくのが分かった。

Comme a La Radio

Comme a La Radio

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悲しい時に聴く音楽

Juana molina "Tres Cosas"

フアナ・モリーナ『トレス・コーサス』

フアナの音楽はアコースティックと打ち込みの不協和音的な融合であり、そこに彼女の可愛らしくもささやくような声が重なる。

Insensible

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感情が悲哀に満ちると、このアルバムのラスト・ナンバー"Insensible"を聴いている。
ピアノの音がたまらない。

Tres Cosas

Tres Cosas

Amazon

 

The Story "Grace in Gravity"

ザ・ストーリー『グレイス・イン・グラヴィティ』

これ知ってる人いるかなぁ。声質がよく似た女性デュオ。
メインはジョナサだが、ジェニファーのか細い声が重なることで哀切な雰囲気が満ち満ちている。
学生時代にヘビロテしては泣いていた。

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Grace in Gravity

Grace in Gravity

  • Elektra Records
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Heather Nova "Oyster"

ヘザー・ノヴァ『オイスター

アラニス・モリセットが流行っていたころの流れで"Walk This World"がヒットしていたけど、"Heal"や"Island"あたりの暗い曲の方が後からジワジワ来た。

Island

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重症うつの時に聴く音楽

Juana Molina "Son"

フアナ・モリーナ『ソン』

うつ病時代によく聴いていたアルバム。
正直、自分には薬よりよく効いていた気がするね。

No seas antipática

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Juana Molina - Son

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アルバムの中でも、この2曲とラストの隠しトラックはまるで抑鬱症状を音楽で表現したかのようだ。
特に表題曲の"Son"は最たるもの。
うつ症状が酷かったころは本当によくお世話になった。

Son

Son

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フアナ・モリーナって意外と日本にファンがいるみたいだね。
何度か来日しているようだ。

 

心が疲れ気味の時に聴く音楽

Fiona Apple "The Idler Wheel Is Wiser Than the Driver of the Screw and Whipping Cords Will Serve You More Than Ropes Will Ever Do"

フィオナ・アップル『アイドラー・ホイール』

心が疲労している時にお世話になっているアルバム。
自分にとっては癒し系。

Werewolf

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Jonathan

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Neneh Cherry "Broken Politics"

ネナ・チェリー『ブロークン・ポリティクス』

ド鬱までは行かないが、若干抑鬱気味だったり心が疲れている時の癒し系アルバム。

Neneh Cherry - Slow Release (Official Audio)

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他にもホリー・コールとかジュリア・フォーダムの"Swept"あたりにも癒されたな。

 

自分を取り戻したい時に聴く音楽

Fiona Apple "Fetch The Bolt Cutters"

フィオナ・アップル『フェッチ・ザ・ボルト・カッターズ』

ちょっと自分を見失った感がある時に聴きたいアルバム。

Fiona Apple - I Want You To Love Me (Official Audio)

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冒頭のピアノで泣いてしまったことが何度か。
"Newspaper"と"Cosmonauts"が特に好きで、この辺りで気力が満ちてくる。

Fetch the Bolt Cutters

Fetch the Bolt Cutters

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完全に独りでこもって聴く音楽

Björk "Medúlla"

ビョーク『メダラ』

ヒューマンビートボックスを用いたことで知られるが、ファンの間でも評価が分かれており、ここで振り落とされた人も少なくないらしい。

Ancestors

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もうダメ。この曲、泣いてしまう。
YouTube流してPCでの割れた汚い音でも震え来ちゃったくらいなんで。

このアルバムは深すぎるせいか、私は大好きだけどめったに聴かない。
聴くのに自分の心の覚悟がいるからなのか。

 

 

長々と貼り付けてしまったけど、音楽話は止まらない。
気がつけば女性ヴォーカルばかり。

こういった曲調なので誰にでもオススメできるものではないが、中には刺さるという人もいるのではないかな。

刺さった人は、おナカーマ!

📖歴史小説『天下一統 始皇帝の永遠』

何だか面白そうだな~と思いながらも読めていない漫画が多々ある。
漫画って関心を持つころには巻数が多く出ていて、大人買いしようと思ってもウン万円も掛かってしまうので、なかなか手が出ない。

『キングダム』に興味があるが、凄い巻数だ。
なので今、ピッコマで1話ずつ読んでいるのだが、スマホの小さい画面では読みにくいったらありゃしない。
やっぱり読書は紙の本に限る。

電子書籍? 何それおいしいの?


『キングダム』と言えば秦であり、始皇帝
しかし本日の読書感想文は漫画ではなく、小説の方だ。

以前、図書館で借りて読んだ始皇帝の小説『天下一統 始皇帝の永遠』(小前亮・著)について、Amazonのレビューで書いたものを編集して再掲する。

 

読みやすい歴史小説(ネタバレあり)

この小説での始皇帝は「趙政」ではなく「趙正」とし、後継者を決める遺勅のくだりは『史記』ではなく『趙正書*1』に拠っている。
作者が歴史学者なので、情報が更新された上で描かれたものと思われる。

これまで歴史小説を読み始めても、人物解釈が自分とは合わずにことごとく挫折していたのだが、この作品は歴史学者によるものからか、あまり突飛な方向に走ることがなく、とても自然に受け入れられた。
人間関係の描写もこういうことがありそうだなぁという説得力を持っていた。

若い軍人達は現代的な言葉使いなので漫画から入った人にも抵抗なく読めそうである。
呂不韋・李斯・王賁あたりはかなり力を入れて描かれているという印象だ。
王賁から軽口を叩かれても感情的にならずに返したり、好戦的な深層心理を自覚する場面などは李斯を冷徹な参謀という人物だけで終わらせていない。
王賁は生意気な若造から、若手を引っ張って行くベテランに成長して行く過程が親しみやすく描かれている。

一方で主人公の趙正は若い時の精神的に成長して行く過程は良かったが、終盤の不老不死を追い求めるくだりなどは心理描写不足が否めない。
全体的に李斯の意思に圧され気味なので、主人公としてはキャラが弱い。
ただ、史書においても始皇帝は人物像が掴みにくいので、大胆な解釈をとらない限りはこんな感じなのかなという気はする。

一番不満があったのは韓非で、彼に至っては心理面がまったく描かれず、ぞんざいに扱われ、作者から愛されなかったかのようだった。

全体的に描写があっさりしていて、呂不韋が璉に迫られる場面が二度に渡って描かれるにも関わらず濡れ場はなし。

処刑も車裂きだろうが腰斬りだろうが穴埋めだろうが一行死なので真に迫って来ることはなく、歴史物としては淡白であり、それゆえにヌルさも感じる。

序盤で趙高が李斯に見下される場面はフラグとして描かれたように見えるのに、趙正の死後はわずか2ページ強の概説で終わるので拍子抜けしてしまう。
王賁も一行でやる気を失くしている。

むしろ統一秦帝国の物語は始皇帝死後の滅びゆく過程こそ劇的なのだが、打ち切り漫画のような形で終わってしまった。
つかみは良いのに何だかもったいない。
上下巻以上の長編だったらもっと面白くなっただろう。

逆に言えばその分、誰にでも安心して読める歴史小説であり、分かりにくい紀伝体史書の流れを把握するには良いのかもしれない。
不満点の方を多く書いてしまったが、おおむね面白くて好みであったがゆえの欲である。

(2019年 記)

 

参考

 

 

*1:2009年に発見された竹簡。前漢中期に記されたものらしい。『史記』では宦官の趙高が胡亥を始皇帝の後継者として推したように書かれているが、『趙正書』では李斯が胡亥を推しているといった相違が見られる。

🪦「いいところが一つもないね」と言われた話

昨日も麻雀をやって来た。
またラスだった。それもダントツに成績が悪かった。

麻雀は運ゲーの要素があるので一回くらいでは判断できないが、先週から成績が点数化されて目に見える形になると、さすがに運とかそういうことではなく、手作りで差があるのだと嫌でも気づいてしまう。
他のメンバーだって初心者には変わりはないし、役を分かっていない人にアガリやテンパイスピードでずっと差をつけられているのを見ると、根本的に知能の差があって、そうなると自分の努力では埋められないのではないかという気がしてきたのだ。

 

知能指数平均未満+ADHD

私の知能テストの成績は、日本人の平均より低い。
昔、テレビで知能テストの番組があって、日本全国平均が110台くらいあったように思うが、自分は92だったか93だったので、平均より大幅に下回る。

私が平均より上回るのは空間認知のみ。
いわゆる「回転」で、図形を引っくり返してどれとどれが同じであるかというやつで、これに関しては迷うことなく次々回答できる傾向はあった。
これができて何の役に立つかと言うと、乗り物の運転で距離感が掴めるということらしいのだが、私は車を持っていなくて運転しないので、自分の空間認知を役に立たせる機会もない。
何より、空間認知が上回った分、ほかの数値はさらに低いだろう。
短期記憶と計算能力なんて酷いものだ。

こういう平均に満たない数値だと、境界知能までは行かないが、表向き何となく普通を装うことが可能でありながら、仕事など実務的な面で「とろい」「いまいち仕事ができない」「理解力が遅い」という部類に入ってしまう。
まるでWindows11を4GBのメモリで動かしているようなものだ。

その上、私は診断済み発達障害と来ている。
知能が平均未満の発達障害という、もしかしたら相当生きにくいタイプのようにも思える。

ただ一方で、私にはコミュニケーション障害がない。
その分、コミュ障よりは世渡りしやすそうで、実際にそれを上手く活かせたこともある。
じゃあ、それで十分マシな方じゃないかと思われそうだが、コミュニケーションが仇になることもある。

昨年、懇親会の席で、ある人から「いいところが一つもないね」と言われたのだ。

 

言われたショックでハゲる

この言葉は暫くずっと私の頭の中でぐるぐる巡り続けた。
間もなくして円形脱毛症があらわれ始めた。

最初は1円ハゲだったが、二ヶ月後には500円玉大サイズにまでパワーアップし、さらに気がつけば頭頂部まで薄くなっていた。
病院に行ったら「何かストレスがありましたか?」と真っ先に訊かれたが、上記の言葉以外に心当たりがなかった。
それまでも、はるかに甚大なストレスを経験してきたが、脱毛などしたことはなかったので、それくらいのことでとも思ったが、昨日の麻雀で自分の能力の低さを自覚したのをきっかけに、昨年言われた「いいところが一つもない」発言が一気に蘇ってしまったので、やはり自分にとって相当なダメージがあったようだ。
ちょうど閉経時期に重なってエストロゲンが低下しているころでもあるから、脱毛という形であらわれたのだろう。

メンクリ行ってPTSD診断受けてたら、慰謝料が取れてたかもなー。


なぜハゲあがるほどストレスを感じたのか

たとえば「顔がブサイクだね」と言われても、への字口を見せて終わったと思う。
私は自分の容姿が良くないという自覚があった上で、そのことについて関心が薄いがゆえに特段コンプレックスも感じておらず、改善のために努力すらしていないからだ。
でも、もし私が自分の容姿に強い関心を持ち、コンプレックスを抱いていたのなら、この言葉はグッサリと心を抉ることだろう。

「いいところが一つもないね」とは全否定の言葉だが、私にとって非常にコンプレックスとなっている仕事をおこなうのに必要不可欠な実務能力が備わっていないことを改めて指摘されたように感じてしまい、酷く落ち込んでしまったのだ。

そこに連続して麻雀でラスになり、数値化され、ダントツに成績が悪かったことで、知能指数の差という先天的なもので絶対的に超えられない壁を思い知らされ、久々に大量の鼻水が流れ出た。

「いいところが一つもないね」とはどういうことなのだろうかと検索までした。
すると、同じことを言われた経験がある人は少なくないようで、Yahoo!知恵袋で多く取り上げられていた。
ただ一つ自分と違うのは、多くの人は、家族や職場の人など日常的に接している相手から言われていた。

私はそうではなかった。
「いいところが一つもないね」と言った人とは、たまにしか会っていない。
なのでその時に、私について「よく知らないし」とも言っていた。

よく知らない相手に「いいところが一つもない」と言うことは、相手の良いところを探すつもりもないという宣言だと私は解釈している。

そもそも「いいところが一つもない」と相手を全否定するような発言は建設的と言えるのだろうか。

 

社会から「死ね」と言われても死ねない理由

私は長年うつ病を患っていたし、ずっと「消えたい」と思っていた。
「死にたい」ではないのは、単純に痛いの苦しいのが嫌だからだ。
飛び降りだの飛び込みだの自殺を図って、死に至る時の身体的苦痛を想像したら恐怖でしかないので、自死自殺の類は決行する勇気がなかっただけに過ぎない。

何で自分は人並みのことができないのだろうと悩み続けていた。
仕事ができなくて自分には生きる資格がないと考えていた。
世の中には、そういう人間に対して「存在しているだけでいいんだよ」「生きてくれているだけでありがとう」などと言ってくれる人もいるけれど、現実はそうではない。

勤労の義務というものがある。権利ではなくて義務なのだ。
義務を果たせていなかったら批判の対象になるのは仕方がないのではないかと自分に対してだけは思ってしまう。

ヤフコメでは犯罪者が無職だと「やっぱり無職か」など、まるで無職だから暴力に訴え出るかのような意見が多く見られる。
さらに「働け」とも。
しかしそれらの意見には首をかしげる

そもそも気に入らないことがあったら暴力に訴え出るようなヤカラだからこそ無職なのではないか。
そういうヤカラであっても自分の職場で受け入れてあげようという意思があって「働け」と発言しているとは、到底思えない。
なぜなら、発達障害者の仕事に関する記事には、職場での発達障害者の扱いにストレスを抱えているカサンドラ症候群的なコメントが多く見られるからだ。

「無職は許さない。働け」
「仕事ができない人とは一緒に働きたくない」

この二つの意見は矛盾しているが、これらの意見を発言している人が必ずしも別々であるとは限らないのではないかとも思っている。
おそらくカサンドラの人は実体験として悩んでいるので、発達障害者を職場で抱えるくらいなら生活保護でも受けて引っ込んでいて欲しいと考えることもあるかもしれない。
しかし「無職は働け」と言っている人は、自分の職場でそういう人を受け入れるという話になったら拒絶反応を示すだろう。
あくまでも自分とは関わりないところでどうぞという意思であることは想像に難くない。

社会全体として「無職ダメ。働け」「仕事ができない人とは一緒に働きたくない」という矛盾した意見が溢れていると、こちらとしては仕事ができない人間はどこに行けば良いのかと悩むことになるが、上記の発言をしている人たちにとっては知ったことではないだろう。

とは言え、仕事ができない人間は現実として存在する。
できない人と同じ空気を吸いたくないが、無職で生活保護を受けるのも許せないとなると、できない人間は究極的には存在して欲しくないと言われているに等しい。
実際、匿名掲示板のようなところになると、「死んでほしい」という率直な意見も散見される。

そうは言っても、仕事ができようができまいが、自殺を図る勇気というのは誰でも持てるものではない。
そもそも自殺企図は勇気だけの問題でもないらしいのだ。
自殺を図る人は、何かにいざなわれるように決行してしまうとも言われている。
迷惑だから飛び降りや飛び込みはやめろと言ったところで、決行する人は正気ではなく、理性が吹っ飛んでいるので、そういう常識も理屈も通じていない状態なのだ。

できる人にとって、できない人間に滅びて欲しいというお気持ちは理解できるが、それを自ら決行してくれというのは無理難題だ。
できない人間だろうと、できる人間だろうと、飛び降り飛び込みでグチャンコになったり、息ができなくなったり、痛いの苦しいのが嫌なのは誰だって同じだからだ。

世の中の、できない人間に対する苛立ちは非常に理解できる。
何よりADHD特性ならではの同じ過失の繰り返しに私自身が苛立っており、もしも自分が分裂したら、自分が自分に暴力暴言を働いていただろう。
そんな時はパワハラをする人の気持ちがよく分かるのだ。

一方で私は、できない人間が自分以外の他人だった場合は、その人を理解しようと努めている。
自分ができないからこそ、できない人の苦しみは想像できる。
なのでその点については、通常の人よりも優しく接することができていると思う。

ならば、なぜ自分には優しくできないのか。
決して自分に厳しい訳ではない。むしろ自分に甘い方だ。
おそらく自分がなりたいと考える理想像からかけ離れているから腹が立つのだろう。

好きで無能な人間になりたい人はいない。
もしかしたら、どこかにいるかもしれないが、今のところそういう意見は聞いたことがない。

なんで世の中、仕事ができるできないの指標が実務能力だけなんだろう。
人間関係を円滑に運んで、誰でも居心地の良い環境を作れる人はもっと評価されてもいいでしょ~。

 

私が生き延びて良いと思えた唯一の理由

しかし、できない自分を消すことができないのなら、消さない言い訳が必要である。
なので、自分のいいところを自分で探すしかない。

私が存在して良かったのだと思えるエピソードがある。
もう十七年とか、そのくらい前の一期一会だった。

駅のホームでお爺さんとすれ違った。
そのお爺さんは酸素チューブを付けていて、非常に痩せており、青白い顔をしていた。
いわゆるヒポクラテス顔貌で、命が長くないことを思わせる様相だった。
そんな人がなぜ一人で歩いているのだろうと気になって振り返ったところ、お爺さんはベンチに座り込んで嘔吐していた。
胃液を吐いており、何も食べられていなかったのだろう。

私は「大丈夫ですか?」と声を掛けて、お爺さんにティッシュを渡したり、背中をさすってあげたりした。
具合の悪い人がいると知らせたので、駅員が車椅子を持って来たが、お爺さんは嘔吐して少しラクになったのか、どんな事情があったのかは分からないが、「大丈夫です」と言って車椅子を断った。
そして私にも「もう大丈夫ですから」と伝えてきた。
お爺さんがそう言うからには、私にもそれ以上できることはなかったし、仕事で移動中だったこともあって、私はお爺さんと別れて先に電車に乗った。
大した助けにもならなかったなと思っていた。
もっと他に何かできることがあったのではないかと、今でも考えてしまう。

ところが、である。
お爺さんは駅のホームからずっと私を見つめながらお礼を言っていた。
お爺さんの表情から、私に対する感謝の気持ちが伝わってきた。
つらい時に声を掛けられたことがお爺さんにとっては嬉しかったのだろう。
私のしたことが十分お爺さんの助けになっていたのだと分かった。

私はそれ以来、お爺さんの顔が忘れられなかった。
そして、自分は存在価値がないと嘆き悲しむたびに、お爺さんを思い出していた。
あのお爺さんのために私が存在して良かったのだと思えたからだ。

私はそののちも「消えたい」「存在価値がない」と思うたびに、お爺さんを思い出しては自分が生きている理由としていた。
私はお爺さんの救いになったのかもしれないが、私にとってもお爺さんの存在は支えになっていた。

この件は誰かに話したこともないので、私しか知らない、数少ない私の”いいところ”なのだと考えている。

💩長期下痢がエビオスで治った!

十日ほど酷い下痢に見舞われた。

過去の日記を振り返ると、毎年この時期は下痢をしている。
3月から5月にかけて、概ね体調が良くない。
自律神経が乱れるからだろう。

特に今年の下痢は酷いし、長かった。
治ってきたかと思ったら、またぶり返した。

久々に友人と会う予定があったので、何としても治さなければならなかったが、治らない。
正露丸ダメ。整腸剤も効かなかった。
ヨーグルトなんて毎朝食べてるのに何の効果もなかった。

どうしよう、どうしようと思いながら、過敏性腸症候群に悩まされていた30代のころにエビオスのお世話になって、かなり助かっていたことを思い出した。

当時の私は今よりも酷く体が弱っていた。
ひとたび下痢になると十日くらい続いた。
当然、栄養が吸収されないので、体力が落ちた。
とにかく腸が弱かったので、あばらが浮くほど痩せていた。

エビオスを何で知ったのか、どんなきっかけがあったのかは覚えていないのだが、これを服用し始めてから、下痢をしても一日で治まるようになった。
十日間も下痢に悩まされることがなくなって、非常に助かった。
40代になるころにはエビオスは卒業していたので、今回は久々の服用だった。

私はエビオスの香ばしい風味が好きだ。
ポリポリと噛むと豆のスナックのようでもあるが、ビール酵母なだけあって苦味がある。
(そして、歯に詰まる)
猫用のドライフードに似ていると言う人もいる。
そう言えば私は子供のころ、飼い猫が食べてくれなかったドライフードをおやつ代わりに食べていたっけ。
漢方薬も味が美味しく感じるものは体に合うという説がある。
もしかしたらエビオスの風味を好む自分には合っているのかもしれない。

結果、エビオスを服用後、下痢が止まった。
正露丸でも整腸剤でも止められなかった酷い下痢がエビオスで一発!
エビオス様様だ。

ところで昔、過敏性腸症候群に効いたので、友人にエビオスを勧めたことがあったのだが、友人は腹が張って合わなかったと言っていた。
やはり薬には相性がある。
私に効いたからといって、他人にも合うとは限らない。
しかし、試してみないことにも分からない。
胃腸が弱い人は一度少量から試してみても悪くはないと思う。

 

エビオス錠
エビオス整腸薬

 

ただ、エビオスにはプリン体が含まれているそうだ。
痛風持ちや尿酸値が高い人は服用には注意が必要なようだ。

服用に関しては、自己責任でよろしくお願いします。
合わないと感じたら、すぐに中止してくださいね。

🀄続・ADHDゆえに麻雀をやめたくなった

久々に麻雀の話。

 

前回、久々に麻雀をやった。
あまりアガれず、調子が悪かった。

昨日も麻雀をやった。
ラスだった。

 

ここのところ、麻雀の勉強を全くやっておらず、勉強したこともすっかり忘れていた。
前回はラスではなかったが、自分の中では前回の方が酷かった。
昨日は勉強したことを思い出せながら牌を切れたせいか、オリることを考えるようなレベルの配牌からアガることができたから、まだマシな方。

ところで、麻雀は運ゲーでもあるので、プロとか天鳳段位とか雀荘の常連とか高いレベルでもない限りは、勝ちたいという気合の強さがかなり影響しているように思える。

いわゆる”オカルト”の話になってしまうが。

 

メンバーに役もルールも用語もろくに覚えていない人がいるのだが、よくアガって、よくテンパイする。
その人=Kさんは昨日ずっと調子が悪く、ヤキトリかと思われた。
ところが終盤になって急にツキだし、大まくりで、序盤にアガりまくっていた先生を抜き去って2位に浮上して終わった。

 

どうしてよく分かっていない人があんなにアガれるのだろうと、いつも思う。
Kさんは入門者用の本しか読んでいない。
入門→初心者~中級者用の本を読んで勉強した私としては、正直面白くない🙃
Kさんの場合は切り方にセンスがあるのかもしれない。
だとしたら、センスは知能によるものだから、日本人の平均知能を下回る私は敵わなくなる。
明るい人なので運も呼び込むのだろうか。

 

昨日トップだったのは、10代のM。
初のトップだった。

 

Mはうちのグループに入ってきて暫くは元気がなかった。
元気がない間はずっと伸びなかった。
しかし、ここ半年くらいで随分と元気になってきたなと思っていたら、同時に麻雀も覚えてくるようになった。
ある時から急に「伸びたな」と感じるようになったのだ。
それからは会って卓を囲むごとに伸びていった。
そこは10代の若さなので、伸び出したら止まらない。
先生も「急に伸びた」と言っていた。
彼女は麻雀が大好きで、ネットでもオフでも打ち続けているので、これからも伸びるだろう。

 

やっぱり元気って大事。
Mが元気になって本当に良かった。

 

それにしても元気があるのとないのとでは、こうも吸収力に違いがあるのかと改めて考えさせられた。
うつ病だったころ、物覚えが極端に悪くなった過去の自分を思い出した。

さて、そうなると私が危機である。

 

今、私は他のことに気を取られているので、麻雀の勉強をしていない。
発達障害の特性ゆえに一つのことしかできない自分は、麻雀もやってアレもやってコレもやってという生活が難しい。

 

実は今の私が気を取られているのは、このブログである。
ブログを形作れれば、別のことに気が向くだろう。
その前は、WordPressで運営しているサイトの更新にかまけていた。
他にもやりたいこと、やらなければならないことはある。
麻雀は自分が何かを作り出す作業ではないので、私にとっては優先順位が低くなる。

 

それと、ADHDに加えて、私は頭の回転もめっぽう遅いので、ゲームの類は向いていないと、つくづく思わされている始末。
伸び出した10代には追い越されたら追いつけるはずもないし、センスがある人にも敵わないだろう。
麻雀をやることで、自分のできない部分ばかり自覚させられて、最近は劣等感しか湧かなくなってきた。
それだったら、他人と比較されることよりも独りで打ち込める作業の方が自分にとっては建設的ではないかとも思える。

 

こんな風に意欲が喪失した状態では、ますます他の意欲のある人たちに適わなくなることは明白だ。
中学生のころ、私はジャンケンが強かったのだが、気合が入っていたからだと思っている。
麻雀は運ゲーの要素があるので、気合は大事だ。

 

その上、グループの連絡役もまともに果たせなくなっている。
ただでさえADHDなのに、近年、更年期物忘れまで加わって、一層のこと頭が働かなくなってしまった。

ギフテッドではない発達障害者はどのように克服しているのだろうか。

 

しかし、かつてうつ病で何もできなかったころと比べれば、色々とやりたいことがあって自分を分裂させたいと思うくらいには回復できているのだから、幸せな悩みではないかと考え直すことにした。

📖絵本『うどんのうーやん』

うどん屋に入ったら、うどんの本ばかり置いてあった。
目の前にあった絵本『うどんのうーやん』。
なんか面白そう……

 

開いてみた。

 

食べ物はリアルな画風なのに、人物や動物は赤塚不二夫みたいなキャラ。

 

短い絵本なので、ネタバレは極力避けたいところだが、うどんのうーやんに次々と出会いがあり、その過程が微笑ましいやら、可笑しいやら。

 

当方関東人なんだけど、この絵本を読んでいる間は関西人になった気分でツッコミ通しである。

「おまえが行くんかい!」
「乗せるんかい!」
「おまえ何モンや!」
「衛生観念どないなっとんねん!」
「どこまで出前行くねん!」

たぶん、この本の作者もそういうノリで描いているんじゃないかなぁ。

 

笑いをこらえながらページをめくっていた。

オチも良かった。
出前先次第では少しモヤッとしそうだったが、相手が・・・だったので納得。

 

うどんを始めとして、ヘタに食べ物たちに顔なんか描かれていないのがシュール感増していて良い。
スマホのアプリゲーム『あつまれ!コッペパン』もそうだけど、顔なんか描いちゃったら野暮なのだ。

 

この本、シリーズになっていて、『ちくわのわーさん』がお兄ちゃんなんだね。

かわいいね。きもかわ系。