この本は2018年に出版されており、比較的最近の物だが、原書の初版は1938年であり、かなり古い。
その改訂第二版が1967年に香港から出版され、この日本語版は、その第二版を翻訳したものだという。
訳者は2003年に原書を購入して、趣味の一環で少しずつ翻訳作業を行ない、それが形となって出版されたとのこと。
著者のダーク・ボッデ(Derk Bodde)は1909年にアメリカのボストンで生まれた中国史学者で、偶然にも訳者の先生の、そのまた先生だったそうだ。
訳者が原書を取り寄せた2003年に著者が没しているので、著者と訳者には不思議な縁があるな
李斯に興味を持ったころに、ちょうどこの翻訳本が出版されたばかりだった。
こういった学術本はなかなかお目にかかれないので、私にとっても良い縁だった。
今回もAmazonのレビューに投稿したものを編集して、以下再掲する。
李斯についての貴重な学術書
著者は「中国統一の第一の功績はむしろ始皇帝ではなく、正に李斯に帰するべきもの」「我々が『史記』にある始皇帝が行った偉大な業績を読む時、それらの功績が始皇帝に帰するのは儀礼的なものであり、それらの立案者は往々にして李斯である」と言い切る。
私はこれを過言であると思わない。
むしろ世間一般的に李斯は過小評価ではないかという印象だ。
焚書坑儒や韓非を死に至らしめた件などで、李斯は人でなしのイメージを持たれている。
それで悪人の評価を受けるのは当然の成り行きであるし、実は始皇帝は李斯の傀儡だったなどという創作物が出て来ても不思議だとも思わない。
しかし李斯の過小評価は必要以上に悪党に貶められているといった類のものではなく、統一秦王朝と始皇帝を語る上で、ほとんど俎上に載せられていないことである。
秦王朝や始皇帝、李斯については限られた記録しか残っておらず、中でも知られているのは司馬遷の『史記』であるが、その『史記』においても、李斯が秦王朝の政策決定の中心人物だったことが分かる。
李斯の上奏は強い意思と推進力に満ちあふれ、始皇帝の方針を覆すような建議もおこなっていることから、君主におもねるだけの佞臣とは真逆である。
始皇帝が韓非子に強い関心を抱いたところを見ると、法家思想が始皇帝の目指すところに合っていて、李斯の建議は特にマッチしていたのだろう。
李斯の獄中からの上奏文は「秦をここまで強盛にしたのは俺だ」と言わんばかりの強烈な自負心に満ちている。
始皇帝が亡くなってすぐに李斯は失脚、処刑され、秦王朝も滅びてしまったところを見ると、李斯あっての秦王朝であり、始皇帝あっての李斯であったとさえ思える。
近年、『趙正書』という竹簡が発見されており、二世皇帝を胡亥に指名する事は(趙高の陰謀ではなく)李斯の建議によるものだったと書かれている。
著者がこの『趙正書』を読んでいたら、またどのように評価したであろうか。
私は李斯を過大評価しているかもしれないが、世間一般的な李斯に対する議論の少なさを見ると、このように李斯を中心として考えた秦王朝に関する学術書が翻訳されたのは貴重である。
1930年代に出版された古いもので、訳者は趣味で翻訳したそうだが、この本を日本語訳して出版してくださったことに感謝したい。
(2019年 記)