照ノ富士は、相撲史に特出して遺る大偉業を成し遂げた名横綱である。
名横綱
初優勝し、大関に昇進後、怪我と病気により、序二段にまで転落。
普通ならここで引退するものだが、彼はそこから大関に復帰するどころか、角界の頂点である横綱にまで昇進した。
照ノ富士の膝の怪我は非常に重く、昇進時には自ら「長くは取れないだろう」と言っていたが、結果的に10回の幕内最高優勝を果たした。
うち9回の幕内優勝は復帰後に果たしており、二度目の大関は最短の二場所で通過した。
横綱に昇進してからは6回優勝しており、半分以上の優勝が横綱在位中によるものである。
三年の在位は決して短命ではない。
相撲ファンならば誰でも、これがとんでもない大偉業であることを知っており、照ノ富士が多く休場しても批判の声は少なく、サポーターを巻いたままの土俵入りにも理解を示した。
師弟の絆
転落していく時の照ノ富士は惨憺たるものだった。
顔はむくみ、全身発疹だらけで、筋肉は落ちて、尻は老人のように萎み、弛んでいた。
誰もが、力士としての照ノ富士はもう終わりだと思っただろう。
初優勝時の勢いを知っていただけに、その落差も凄まじかった。
照ノ富士は五度に渡って、師匠に引退の旨を申し出たという。
しかし伊勢ヶ濱親方(第63代横綱・旭富士)は首を縦に振らなかった。
「まずは病気を治せ」と言うのみであった。
おそらく伊勢ヶ濱親方以外の師匠ならば誰であっても、照ノ富士からの引退の意思を受け入れただろう。
なぜなら当時は、優勝経験のある元大関が無給の幕下に落ちてまで現役を続けることなど前代未聞だったからだ。
連続休場により、照ノ富士は幕下どころか序二段にまで番付を落としている。
大関まで務めた力士を序二段に落ちても退めさせない伊勢ヶ濱親方に対しても、おそらく周囲からの風当たりは相当強かったはずだ。
師匠が引退の意思に対して首を縦に振っていれば、第73代横綱・照ノ富士は存在しなかった。
照ノ富士は「親方がいなければ、今の自分はいなかった」と語る。
復帰後の照ノ富士は、たびたび師匠に対する敬意を口にしている。
二度目の大関昇進は優勝して決定づけたが、この時彼は「師匠の顔に泥を塗らないように、文句ない形で決めたかった」と言っている。
当時、伊勢ヶ濱親方は審判部長を務めていたが、実はたびたび自身の弟子に対する依怙贔屓判定が見られ、批判を受けていたという背景があった。
照ノ富士の台詞は、その辺りを意識していたことを示唆している。
照ノ富士は日本に帰化したが、その名は「杉野森 正山(すぎのもり・せいざん)」といい、師匠の本名「杉野森 正也(すぎのもり・せいや)」から頂いたものである。
照ノ富士の変容
照ノ富士は初優勝のころはイケイケで、記者団相手にソープに連れて行ってもらったことをペラペラ喋るようなキャラクターだった。
インタビュールームでもニコニコしながら「親方や横綱、兄弟子たちの言うことを聞いて、もっともっと稽古して頑張ります」と愛嬌たっぷりだった。
しかし、復帰後はすっかり寡黙になり、まるで別人格のようだった。
容易に話しかけづらいような、威厳に満ちた力士になっていた。
照ノ富士は、好角家が理想とする横綱像を体現していた。
照ノ富士自身は「地獄を見た男」と称されるほど人一倍の苦労をして這い上がったが、一方で、他の力士たちの立場を思いやり、彼らを守るかのように、報道陣の批判的な姿勢を牽制することもあった。
照ノ富士の今後
まずは、体の治療に専念してもらいたい。
いずれは、部屋の師匠となるだろう。
部屋では既に弟弟子たちの指導を行なっている。
元々彼は、中学生でスケートリンクを経営し、数学チャンピオンであり、大学には飛び級で進学するような頭脳の持ち主である。
そこに高い精神性を宿した彼が、一体どのような弟子を育てるのか期待は尽きない。
照ノ富士というレガシー
改めて、照ノ富士は本当に凄い横綱、凄い力士である。
ただ、彼がモンゴル出身ゆえに、「またモンゴルか」と言われてしまうこと、相撲ファンならば誰もが知る照ノ富士の大偉業が、日本出身者ではないという理由で一般的にあまり注目されていないことは、非常に残念でならない。