
日本人は宗教に囚われていないことが多い。
正月には神社を詣で、結婚式をキリスト教会で、葬式は仏式で行なうのが珍しくない。
元々、日本にはたくさんの神様がいる。
便所にも貧乏にも神様がいる。
一神教ではないから、お寺の境内に神社も一緒にあったりして、神様と仏様と両方を拝むことに何の抵抗もない。
むしろ馴染みのない一神教にはカルト教団のイメージを抱いている。
だから民主主義国家でありながらキリスト教が広まらないと言われている。
カルト教団が悪目立ちするので、ますます多くの日本国民は偶像崇拝や唯一絶対神への盲信に対して抵抗を示す。
仏教は本来、偶像崇拝とは真逆の教義なのだが、カルト教団の主宰者が自身を釈迦の生まれ変わりだの何だのと騙って自らを信奉の対象とするので、一般人からますます仏教を遠ざけることになっている。
釈迦は「私を拝め、信奉しろ」などと言わない。
むしろ全く逆だ。
「私を拠り所としないで、自分自身を拠り所としなさい」と説く。
「自燈明、法燈明」
「ただ独り、犀の角のように歩め」
こういった教えは、孤立・無縁社会と言われる現代にこそ必要なのではないか。
もし、仏教の教義を一言で言い表せと言われたら、「執着しない」ことだろう。
怒りや不満は相手への要求であり、悲しみは大事なものを失うことから来る感情だからだ。
人にも物にも執着しなければ、怒りも悲しみも湧かないという訳だ。
執着してはならないのだから、当然、釈迦に執着することも彼の教えに反するのだ。
釈迦は宗教家ではなく、思想家だと言われる所以である。
原始仏典『ダンマパダ』と『スッタニパータ』の違い
仏教について知りたいと思った時に、どの仏典を選べば良いのか迷ってしまうが、私はとりあえず原始仏教と言われる『ダンマパダ(法句経)』と『スッタニパータ』を選んだ。
二冊とも読了した結果、シンプルに釈迦の教えを知りたいのなら、『ダンマパダ』一冊あれば十分だと思った。
『ダンマパダ』はそこに至るまでのエピソードや具体的な人物は盛り込まず、釈迦の教えに特化してまとめられている。
『スッタニパータ』は、弟子が釈迦に教えを乞う形式なのだが、釈迦が如何に素晴らしいかとか、釈迦が目覚めた人であるとか、そういった対話の連続なので、宗教色を強く感じてしまう。
「ゴータマ・ブッタ素晴らしい!」なんて祀り上げること自体、釈迦の教えから外れているのではないか。
しかし、そういった美辞麗句をスッ飛ばして、釈迦の教えだけをピックアップすれば、『スッタニパータ』の教義も『ダンマパダ』に書かれていることと共通しているのが分かる。
かの有名な「犀の角」は『スッタニパータ』の方に収録されているが、『ダンマパダ』にも同じ趣旨のことは書かれている。
原始的仏典がしばらく忘れ去られがちだったのは、その教えが社会生活にそぐわない面があったからだろう。
原始仏教に従えば、皆が托鉢する生活になってしまい、社会の営みができなくなるからだ。
釈迦は王族の出身で、何不自由のない生活を送れたはずなのだが、そんな彼が妻子もある身で出家してしまう。
釈迦の教義を見ると、彼自身が相当繊細で、恵まれた環境にあっても苦悩することが多かったのではないかと想像する。
鈍感であれば、何の疑問も持たずに自身の境遇を受け入れて生活していくだけだからだ。
「毎日忙しく時間に追われている生活をしていたら悩むヒマなどない」と批判する者がいるが、王族の釈迦だって苦悩した末に悟りを開いて、歴史に名を遺す偉人となったのだのだから、ヒマ人ゆえに悩むことが悪とは言い切れない。
何より釈迦は苦行では悟りを開けないことを知った。
つまり、人の苦悩はヒマとは関係ないと実証したようなものではないか。
それにこの記事にだって、「忙中閑あり」「七走一坐」と書いてある。
過労で睡眠不足になり、甚だしくは自死や過労死にまで至ってしまうのなら、忙しければ悩むヒマもないという話とは矛盾する。
悩む人と悩まない人がいるが、それらは生まれつきの性質であって、努力や根性とは別物だ。
実際、努力や根性ではなく、脳機能の問題であるということが、高次機能障害を負った人のケースでも分かる。
それはまた、次回に。









